戦艦大和(やまと)の同型艦の武蔵(むさし)、共に世界最大の戦艦。 就役後間もない頃の写真か。
錨をおろした戦艦大和。 出撃せず停泊していることが多く、さらに当時の軍艦では珍しく冷房装置が装備されていたため「大和ホテル」と揶揄されることに。 武蔵も同様で、「武蔵御殿」と皮肉られる。
シブヤン海戦で米軍機の攻撃を受ける戦艦大和。 直撃弾が命中した瞬間。 1944年10月26日
沖縄への海上特攻の途中、米軍機の集中攻撃を受け逃げまどう戦艦大和。 1945年4月7日
相変わらず、私(平井宏明・日本再生投資(株)代表取締役社長)になりすまし、ネット上のあちらこちら(例えば「保守速報」や津川雅彦氏等の芸能人ブログなど)に、くだらない愚劣な書き込みをするケースが多数発生しています。 私に無関係な、嫌がらせ、悪ふざけ、他人を騙る虚偽発言、茶化し、暴言、脅迫など悪質なコメントが多数ばらまかれています。
また、私が他の多くのブログやサイト等で、いわゆる「荒らし」を行なっているとの虚偽の情報が流されたりもしています。
米軍機の猛攻撃により大破、浸水して左に傾いたまま航行する戦艦大和。 1945年4月7日
大爆発を起こし海中に消える戦艦大和 1945年4月7日14時23分。 3千人もの命が一挙に失われる。
日露戦争で、ロシアバルチック艦隊を撃滅させ圧勝した日本海海戦(想像画) 1905年5月27日。 当時は軍艦対軍艦の海上艦隊決戦の時代。 日本海軍首脳陣は、この成功体験に固執する。
小学2年生の時に初めて知りました。 日本と米国が大戦争をしたこと、そして日本が負けたことを。 当時の少年雑誌、「少年サンデー」などの内容は、今とは違って、戦記物が多く、「戦艦大和のすべて」や「ゼロ戦大図解」などという特集記事がカラー絵図入りでよく載っていたのを覚えています。 別に軍国少年だったわけではないのですが、そうした記事に胸躍らされたものです。
そして世界一の軍艦といえば、日本海軍の戦艦「大和」! 当時少年の私はこの「大和」が日米戦争で大活躍したものと思っていました。
ところが実態は全く違っていたことを、少し後に知ることになります。
戦艦「大和」と「武蔵」は、同型艦で、共に当時世界最大、世界最高の技術を投入、武装も世界最大の口径46センチの主砲9門を備えた超々々弩級巨大戦艦(重量7万トン超)。 軍艦対軍艦の海上艦隊対決であれば圧倒的強さを発揮するはずでした。
しかし、両艦が就役した頃には既に航空機の重要性が決定的になりつつありました。(大和の就役は1941年12月16日、武蔵の就役は1942年8月5日)
皮肉にも、対米戦の火蓋を切った日本海軍によるハワイ真珠湾攻撃(1941年12月8日)が、航空機主役の戦争の幕開けを世界に示すものでした(航空母艦から発進した零式艦上戦闘機(ゼロ戦)や戦闘爆撃機、雷撃機による攻撃が大戦果をあげる)。
さらにハワイ真珠湾攻撃の二日後には、マレー沖海戦で日本海軍の攻撃機が、英国の最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」をいとも簡単に沈めました。 これも航空機による攻撃の優位性と巨大戦艦の無力さを示すものでした。
戦艦「大和」も「武蔵」も、もはや時代遅れの産物であることは明らかでした。
従って両戦艦は出番自体あまりなく、たまに出撃しても殆ど活躍の場がないというありさまでした。
今思えば、「大和」も「武蔵」も、設計変更し、航空母艦として建造すべきでした。 あるいは建造を中止してでも、その資金と資源を航空機の開発・製造に充てるべきでした。
しかし日本海軍は、画期的に優秀な零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を開発するなど航空機の重要性を認めつつも、30年以上前の日露戦争で、ロシアバルチック艦隊を撃滅した日本海海戦の成功体験に固執、海上艦隊決戦主義や大艦巨砲主義から抜け出せなかったようです。
そして、「武蔵」はさしたる戦果をあげないまま、レイテ沖海戦で1944年10月24日、米軍機の集中攻撃により沈没。 1千人以上が犠牲となる。