この時期になると、いつも不満に思うことがあります。「戦争」についてのジャーナリズムの姿勢です。
71年前の8月に敗戦で終わった大東亜戦争(アジア太平洋戦争)について、ジャーナリズムが伝えるのはいつも、「戦争の悲惨さ」「原爆の残酷さ」「特攻隊の悲運」「戦争を忘れてはならない」「平和への祈り」・・・・・・つまりは戦争が悪い、平和を祈ろうといった類いの言葉ばかり。
しかし「戦争」は結果として生じる「現象」に過ぎません。ジャーナリズムにとって重要な役目は「戦争」を生じさせた「原因究明」や「責任追及」のはずです。
これが、企業不祥事で犠牲者が出た場合の報道であれば、結果として生じた悲惨さ(現象)を伝え、再び起きないことを祈るだけだったでしょうか。必ず「原因究明」「責任追及」に手を緩めず立ち向かったはずです。
森永ヒ素ミルク中毒事件 カネミ油症事件 サリドマイド薬害事件 水俣病 新潟水俣病 イタイイタイ病 四日市ぜんそく 雪印集団食中毒事件 三菱自動車によるリコール隠し、これらは全て「原因究明」「責任追及」まで至っています。
ところが先の大戦となるとそこまで行きつかない。日本人だけでも三百万人以上の死者を出したこの戦争については、その悲惨さを伝え、再び起きないことを祈るだけで終わってしまう。「原因究明」「責任追及」にまで迫ることはほとんどない。
開戦を決定し、戦いを煽り、敗戦必至になってもなお戦争継続を決め、「国体護持」にこだわりポツダム宣言の受諾を遅らせた、そうしたことの「原因究明」「責任追及」をしてくれることをジャーナリストに期待します。
以下にそのことに関係のありそうな人物名を画像とともに掲げておきます。
また彼らだけでなく、さまざまな組織や団体(靖国神社、大政翼賛会、新聞社、出版社、放送局、教育機関など)が関係していたはずです。
前天皇裕仁(ひろひと) 1901.4.29.~1989.1.7. 旧憲法下で日本国の統治権者であるとともに日本陸海軍の統帥権者(最高指揮権者)でもあった。当初、A級戦犯の筆頭に挙げられていたが、GHQの占領政策上、天皇を利用する方が得策との判断から、戦犯リストから外され極東国際軍事裁判で裁かれることはなかった。
軍事演習を視察する前天皇裕仁
東條英機(とうじょうひでき) 1884.7.30~1948.12.23. 天皇裕仁から信認が厚く、現役軍人のまま1941年10月18日、第40代内閣総理大臣に任命される。東條も天皇への忠誠心が強く、天皇裕仁の意向を受け日米開戦回避を探るも実らず、1941年12日8日真珠湾攻撃により米英との開戦に至る。1944年7月のサイパン島陥落を受け辞職した。極東国際軍事裁判で死刑判決を受け1948年12月23日刑死。
土肥原賢二(どいはらけんじ) 1883.8.8.~1948.12.23. 謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作に中心的役割を果たす。極東国際軍事裁判で死刑判決を受け1948年12月23日刑死。
武藤章(むとうあきら) 1892.12.15.~1948.12.23. 陸軍中将 主な任地は中国、フィリピン。極東国際軍事裁判で死刑判決を受け1948年12月23日刑死。
板垣征四郎(いたがきせいしろう) 1885.1.21.~1948.12.23. 関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行。極東国際軍事裁判で死刑判決を受け1948年12月23日刑死。
松井石根(まついいわね) 1878.7.27.~1948.12.23. 中国で蒋介石軍と戦闘、1937年12月の南京攻略戦に関わる。
極東国際軍事裁判で、この南京攻略戦において不法行為があったとして、死刑判決を受け1948年12月23日刑死。
木村兵太郎(きむらへいたろう) 1888.9.28.~1948.12.23. 近衛内閣と東條内閣で陸軍次官を務め、陸軍の中枢を握った。極東国際軍事裁判で死刑判決を受け1948年12月23日刑死。
広田弘毅(ひろたこうき) 1878.2.14.~1948.12.23. 外務大臣を歴任後第32第内閣総理大臣に就任。その後貴族院議員などを歴任した。極東国際軍事裁判で文官としては唯一の戦犯として有罪判決を受け死刑判決を受け1948年12月23日刑死。
永野修身(ながのおさみ) 1880.6.15.~1947.1.5. 海軍軍人、教育者。海軍兵学校28期、海軍大学校甲種8期。最終階級は元帥海軍大将。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。A級戦犯の容疑で極東国際軍事裁判中に巣鴨拘置所にて病死。
当時の新聞記者の回想によると見た目とは異なり、性格は温和で権威主義が優先されていた当時の日本としては珍しく、国籍や身分、性別などを問わず、分け隔てなく人と接する人物だったという。永野は大の親米派で、アメリカ駐在(ハーバード大学留学)時代には「軍人でなければ(アメリカに)住み続けたいと話していたという。松岡洋右(まつおかようすけ) 1880.3.4.~1946.6.27. アメリカへの留学経験があり、満州国では満鉄総裁。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など大戦前夜の日本外交の重要な局面に、代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。敗戦後、極東国際軍事裁判での公判中に病死した。
天皇裕仁は松岡を徹底して嫌っていた。『昭和天皇独白録』にも「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」、「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計画には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」、「5月、松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」というような非常に厳しい言葉を残している。
近衛文麿(このえふみまろ) 1891.10.12.~1945.12.16. 政治家。貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)を歴任。1941年10月16日、日米交渉の不調・行き詰まりを理由に政権を投げ出す。近衛は1945年2月14日に、天皇裕仁に対して「近衛上奏文」を奏上した。この上奏文は、国体護持のための早期和平を主張するとともに講和推進を天皇裕仁に対し徹底して説いている。しかし天皇裕仁は「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか難しい」と拒否、その結果、絶望的な戦闘が続き、さらに一般市民の犠牲がこの時以降に集中することになった(都市無差別爆撃、沖縄戦、原爆投下など)。
戦後、1945年12月6日に、GHQからの逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが最終的に決定した。近衛は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明に服毒自殺した。
大西瀧二治郎(おおにしたきじろう) 1891.6.2.~1945.8.16. 海軍軍人。海軍兵学校第40期生。神風特別攻撃隊の創始者。終戦時に自決。最終階級は海軍中将。木戸幸一(きどこういち) 1889.3.4.~1977.4.6. 天皇裕仁の側近の一人として東條英機を首相に推薦するなど大東亜戦争(アジア太平洋戦争)前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判でにおいて終身刑となったが後に仮釈放された。
大川周明(おおかわしゅうめい) 1886.12.6.~1957.12.24. 思想家。 その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。
極東国際軍事裁判で民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された。しかし、精神障害と診断され裁かれなかった。晩年はコーラン全文を翻訳するなどイスラム研究でも知られる。
梅津美治郎(うめづよしじろう) 1882.1.4.~1949.1.8. 陸軍軍人 最終階級は陸軍大将。1945年8月9日深夜の御前会議で、陸軍大臣の阿南惟幾とともに陸軍を代表し、ポツダム宣言受諾ではなく戦争継続による本土決戦を主張した。
極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。阿南惟幾(あなみこれちか) 1887.2.21.~1945.8.15. 陸軍軍人。陸軍大将。1945年4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。大東亜戦争(アジア太平洋戦争)末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府において戦争継続を主張したが、最終的にポツダム宣言受諾が決定され、8月15日に自決。
石原莞爾(いしわらかんじ) 1889.1.18~1949.8.15. 陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。「帝国陸軍の異端児」のあだ名が付くほど組織内では変わり者だった。
関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気のため戦犯指定を免れた。
杉山元(すぎやまげん/はじめ) 1880.1.1.~1945.9.12. 陸軍軍人。元帥陸軍大将、陸軍大臣、教育総監、開戦時の参謀総長。陸軍士官学校卒業(12期)、陸軍大学校卒業(22期)。杉山は支那事変開始時の陸相、開戦時の参謀総長であったため、敗戦の責任を痛感しており、1945年9月12日ピストル自殺した。
牟田口廉也(むたぐちれんや) 1888.10.7.~1966.8.2. 陸軍軍人。最終階級は中将軍。盧溝橋事件や、開戦時のマレー作戦やインパール作戦において部隊を指揮した。しかしインパール作戦は大きな犠牲を伴い失敗し、兵站や機械化を軽視する日本軍の風潮の典型と評され、牟田口の一連の作戦指導に責任は免れない。晩年の前天皇裕仁
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